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2025年3月3日

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著者名 書名 出版社 出版年
石井昌子 『ジョージ・エリオットのリアリズムと道徳観』 彩流社 2024年

【梗概】
 George Eliot (1819–80)は19世紀イギリスの最も完成度の高いリアリズム小説家の1人と見なされている。リアリズム小説は、登場人物の心理や外部事情を詳細に描くことにより物語のリアリティを生み出そうとする。また出来事は起きた年代順に記し、蓋然性の高い因果関係を描く。
 エリオットのリアリズムには読者の登場人物に対するシンパシーを高めるという道徳的目的があった。エリオットの考えるシンパシーは現代のエンパシーに近く、「共感」と言い換えることが出来る。
 エリオットの小説は作品発表当時から、作者の慣れ親しんだ田園風景を描いた前期の小説だけがリアリズムに沿っており、それ以降の小説は現実世界に密着することなく分析が多すぎてリアリティに欠けると考えられてきた。エリオットの評価が回復に向かったのは、F. R. LeavisのThe Great Tradition (1948)がきっかけである。それ以来、20世紀後半のポスト構造主義からの批判を除くと、エリオットの後期作品にもリアリズムを認めるのが一般である。とくにMiddlemarch(1871–72)は、19世紀イギリスのリアリズム小説の傑作の1つと見なされている。しかしどの先行研究も、エリオット作品のシンパシーに欠ける人物は他者にとって一律に有害であると考え、作者自身のシンパシーの対象が後期作品にかけて拡大していることや、それが作品のリアリズムの進展に影響を及ぼしていることに無関心であった。
 本書は、登場人物の心理や外部事実の詳細な記述と出来事の蓋然性の高さというリアリズムの基本的要件に立ち返り、テクストの描写および物語の時代背景を詳細に吟味することにより、シンパシーに乏しい人物が家族や社会にとって有害で追放されるか改悛させられねばならない存在から後期作品においてはシンパシーに乏しいままで家族をより大きな絶望から救う存在へと、またその被害者的心理も描かれる存在へと変化していることを証明した。このことはその背後でエリオットの道徳観が次第にシンパシーの対象の範囲を広げる方向に変化していることを意味する。すなわち初期作品から後期作品に向けてリアリズムが進展し、それは作者の道徳観の成熟に起因するのである。
 エリオットの最後の長編小説Daniel Deronda (1876)については、リアリズムからの逸脱として物語冒頭のフラッシュバックの手法や、物語最後の結末の曖昧が指摘されている。それに対し本書は語りの視点に注目した。『ミドルマーチ』までのシンパシーに欠ける人物は自分の利益にならない利他的価値の存在を理解できないだけで故意に意地悪であるとは描かれていないが、『ダニエル・デロンダ』のHenleigh Grandcourtは自らの支配欲の満足のためだけに妻や飼い犬を虐待する。グランドコートのような根本的善性の疑われる人物が登場する時、作者はもはやその人物に共感を抱かず、読者にも共感を促さない。彼の虐待場面は、被害者の視点からのみ描くモダニズム的手法を用いることで冷酷さを際立たせる。またグランドコートの溺死は彼を助けなかった被害者の解放と罪の意識の告白として描く。こうしてエリオットの小説におけるリアリズムと作者の道徳観の密接な関係を示したところに本書の意義がある。

【目次】
序章
 (1) 本書の目的と方法
 (2) エリオットの道徳観とリアリズムの関係に関する先行研究と本書の意義
 (3) 本論文の構成

第1章 エリオットのリアリズム
 (1) 小説の起源と「形式的リアリズム」
 (2) リアリズムと写実
 (3) 19世紀イギリスのリアリズム小説の特色
 (4) エリオットの小説とポスト構造主義批評

第2章 エリオットの道徳観とシンパシーとリアリズム
     ̶「ジャネットの悔悟」における比喩表現を例として
 (1) エリオットの道徳観とシンパシー
 (2) シンパシーの一般的概念
 (3)「ジャネットの悔悟」に見る比喩表現によるシンパシーの描き方

第3章 語り手の心の鏡に映らないヘティ
    ̶『アダム・ビード』のリアリズム再考
 (1) ホール・ファーム時代のヘティの心理描写
 (2) 放浪中のヘティの心理描写
 (3) 法廷と監獄でのヘティの心理描写

第4章 洪水の結末とシンパセティックなトム
   ̶『フロス河畔の水車場』におけるリアリズムの進展
 (1) 洪水の場面における事件の蓋然性の低さ
 (2)トムの性格描写に現れたリアリズムの進展̶シンパセティックなトム
 (3) トムの変貌、弱者トムの不在とリアリズム

第5章 シンパシーとシンパシーの欠如の交差
    ̶『ミドルマーチ』における道徳観の成熟とリアリズムの進展
 (1) 中期小説におけるリアリズムの後退と進展
 (2) 『ミドルマーチ』のリアリズムに関する先行研究と本章の立場
 (3) カゾボンの道徳的堕落
 (4) ロザモンドのリドゲイトの幸福への貢献

第6章 『ダニエル・デロンダ』におけるモダニズム的手法の採用
    ̶人間の根本的善性への信頼の揺らぎ
 (1) 語りの視点と手法
 (2) グランドコートの性格̶徹底的にシンパシーに欠ける人物の登場
 (3) フェッチとグウェンドレンに対する虐待の場面の描写
 (4) グランドコートの溺死の場面の描写

終章

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