2025年2月22日
会員著書案内著者名 | 書名 | 出版社 | 出版年 |
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井川ちとせ | 『アカデミアの内と外——英文学史、出版文化、セルフヘルプ——』 | 小鳥遊書房 | 2025年 |
【梗概】
本書は、イギリスにおける出版文化、セルフヘルプ、そしてときにミドルブラウという蔑称でひと絡げにされる独学者や一般読者の営みについて考察する6つの章から成る。
英文学史において盛期モダニズムと呼ばれる時代は、英文学が娯楽から学術研究の対象へと格上げされつつあった時代でもあった。その過程で、文学史に名を刻み、シラバスに掲載されるに値する作家・作品と、そうでないものとが腑分けされ、序列化された。大学に確固たる基盤を得た英文学科では、ヴァージニア・ウルフの「ベネット氏とブラウン夫人」が、その主張の妥当性が吟味されないまま読み継がれ、多大な影響を及ぼしてきた。第一章は、エドワーディアン対ジョージアンの世代論、リアリズムからモダニズムへという単線的発展史観、ジャーナリズム対アカデミズムないしはロウ/ミドルブラウ対ハイブラウの構図には収まりようもない、多様なアクターの交流と交渉を追い、別様であり得た英文学史を提示した。
第二章と第三章は、ベネットという周縁に対する中心として、あるいはリアリズムを過去のものとして葬り去ったモダニズムの作家として、盛んに研究がおこなわれてきたロレンスとジョイスを扱う。第二章では、ロレンスの「多元呑気主義」が、今世紀転換期の批評理論における情動論的転回あるいはポストクリティークの潮流と共鳴し合うことを指摘し、アカデミア内外を架橋する読みの可能性を提示した。第三章は、イングランドの出版文化やメディアの言説などがいかに植民地アイルランドにおける主体形成に関与したかを明らかにすると同時に、主体による誤読に希望を見出す。
第四章は、緻密かつ難解な議論で知られる人類学者マリリン・ストラザーンが1973年から翌年にかけて執筆しながら40年以上、日の目を見ることのなかった一般読者向けの単著と、2000年代後半にシャロン・マーカスらが提唱した「ジャスト・リーディング」あるいは「表層的読み」との親和性に着目した。1970年代以降のアカデミアで主流を成してきた「徴候的読み」は往々にして、抑圧と抵抗という解釈枠組み(ストラザーンのいわゆる「ステレオタイプ」)に従ってテクストの余白や行間や裂け目に目を凝らすあまり、テクスト表層に顕在するもの(ストラザーンのいわゆる「明明白白の事実」)を見過ごしてきたと言える。ヴィクトリア朝社会における女の抑圧状態ないしは規範的異性愛体制の攪乱の寓話とも読める小説の表層に、歴として描かれた友情と親族関係に光を当てる。
第五章では、1880年代から1910年頃までの労働組合の機関誌と自助の手引きの分析を通じて、従来、看過されがちであった独身男性事務職員の経験の再構築を目指した。彼ら新しいホワイトカラー労働者は、文学市場を支える読者でもあったから、数々のハウツーものを世に問い、事務職員を主人公とする小説を物したベネットの仕事とその周辺のテクストも手がかりとした。付録では、ベネットの仕事におけるノンフィクションの位置づけを示すとともに、ベネットによる事務職員小説5作を概観した。とくに後者に関しては、先行研究の乏しい女性事務職員を主人公とする2作に紙幅を割いた。
第一章の考察対象が、おもに1880年代から1930年代までの文学テクスト生産の物質的文脈であり、ジャーナリズムと学術研究という二つの領域間の交渉の力学であるのに対し、最後の第六章では、1990年代以降のグローバルな出版業界の再編と新興メディアの登場に伴う文学生産と流通の変化、作者と読者との関係の変容について論じた。
【目次】
はじめに 「ロマンスはここにもある」
第一章 リアリズムとモダニズム——英文学の単線的発展史を脱文脈化する
はじめに 英文学史の「驚異の年」?
1 ブラウのバトル?
2 年五百ポンドの不労所得 vs. ホワイトカラー労賃
3 「ベネット氏とブラウン夫人」再読
4 「活気と進取の気性に富む古い世代」
5 英文学科、学外講座、文芸ジャーナリズム
6 遍在する奇跡
第二章 情動と「多元呑気主義(ポリアナリティクス)」——ポストクリティークの時代にD・H・ロレンスを読む
1 懐疑的解釈とポストクリティーク
2 気遣いと部分的繋がり
3 ハピネス・ターン?
4 『息子と恋人』の肯定的読み
5 フィクションをめぐる感情のパラドクス
6 剣呑な呑気主義
第三章 ガーティのケース——『ユリシーズ』第一三挿話のメランコリックなヒロイン
はじめに アイデンティティの公式
1 ところでガーティとは誰でしょう?
2 ところで若い女の子は何を欲しているのでしょう?
3 ドメスティック・イデオロギーと植民地支配
4 「彼女たちは何を愛するんだろう?」
5 娘のメランコリー
6 他者の欲望
第四章 抑圧と解放?——ヴィクトリア朝小説に見る生命、財産、友情、結婚
1 女は抑圧された階級か?
2 ステレオタイプと分析
3 システムの遊び
4 結婚の企て/筋立て(プロット)
5 規範的異性愛体制の攪乱?
第五章 二〇世紀転換期イギリスにおける独身男性事務職員のセルフヘルプ
はじめに 事務職員研究の現在
1 労働組合と〈男らしさ〉の戦略
2 事務職からの逃走、または娘婿=共同経営者ファンタジー
3 ジェントルマンの理想とセルフヘルプ市場
4 消費財としての時間と勤勉な消費者としての事務職員
付録 アーノルド・ベネットの〈ポケット哲学〉
アーノルド・ベネットの事務職員小説
第六章 「ミドルブラウ」ではなく「リアル」——現代イギリスにおける文学生産と受容に関する一考察
はじめに ミドルブラウの美意識?
1 「この危なっかしい業界」
2 〈やつら〉と〈われら〉?
3 「リアル・リーダーズ」とは誰か?
4 民主化されたモダニズム、またはワードプロセッサー・シークエンス
おわりに よりよく繋がるための文学の力
引用文献
註
初出一覧
索引